昨年読んだ中で一番おススメ本として、この本を読書会でご紹介いただきました。
筆者は、大泉洋さんが主演で映画化された「こんな夜更けにバナナかよ」の原作者でもある渡辺一史さんです。
「障害とは」「人が生きるとは」を深く考える良書でしたので、4つの要点にまとめてお伝えします。
目次
1.障害者は本当にいなくなればいいのか
私たちの社会は、個人や家族だけでは解決できない問題を社会全体で考え、それらを社会的に解決し、支えあうための制度を制度を長い年月をかけて築き上げてきました。 その根本が、福祉とか、社会保障制度と呼ばれるものです。日本では福祉というと、つい障害者や高齢者、あるいは、生活困窮者といった「特別な人たち」のためだけと考えがちですが、本来、福祉や社会保障というのは、誰にとっても、やがてくるその日のための大切な備えであり、心がまえであるはずです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.11
自分の身近に障害者がいると、障害者は家族だけでなく、社会全体で支援するものだという考えになりますが、その環境にないと障害者に対するイメージはまったく異なります。
「障害者がいるために、税金の負担が多くなっている」だから「障害者なんていなくなればいい」という差別的な言葉さえも出てくるのです。
そういった感情を持つ人に対して、筆者はこう問いかけます。
「では、あなた自身は、自分に生きている価値があると、誰の前でも胸を張って言えるんでしょうか?価値があるとしたら、どうしてそう言えるんですか?」と。
おそらく多くの人は、「うーん、そういわれると、とたんに自信を失うな」と考えるでしょうし、「おまえには生きる価値がない」と他人からいわれたイヤだからこそ、他人にもそんなことはいわないし、ましてや、殺していいはずがないと考えるはずです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.46
多様に生きる
自然の摂理(進化の原理)というものに目をむけると、なぜ人間社会が弱者を救おうとするのかについては、じつにさまざまな考え方や説明の仕方があります。もっともよくある説明としては、できるだけ多様な形質をもった個体を生かすことが、人間という種そのものの存在にとって有利に働くから、というものです。
たとえば、現代において「価値が高い」とされる個体だけが生存をゆるされ、「価値が低い」と思われる個体を皆殺しにしてしまうとしたら、時代が変わって、その価値観が意味をもたなくなった瞬間、人類が滅んでしまうリスクを抱えることになります。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.68
「あの人は価値が低い」から、いなくなればいい。
こうした思想は考えただけでも、本当に恐ろしいことです。
障害者の「存在価値」とは
それでは、障害者の存在価値はどこにあるのでしょうか。
脊髄性筋委縮症という重い病気であった海老原博美さんは講演でこのように語っていました。
私たち、重度障害者の存在価値とはなんでしょう。
重度障害者が地域の、人目につく場所にいるからこそ「彼らの存在価値とはなんだろうか?」と周囲の人たちに考える機会を与え、彼らの存在価値を見出す人々が生まれ、広がり、誰もが安心して「在る」ことが出来る豊かな地域になっていくのではないでしょうか?
重度障碍者が存在しなければ、そもそも「なぜ?」と問う人も存在せず、価値観を広げる機会自体を社会が失うことになります。
重度障害者は、ただ存在しているだけで活躍していると言えませんでしょうか?
私は、そういう意味で、重度障害者の活躍の場を、社会の中に作っていきたいのです。どんな重度の障害者でも、安心して地域に在ることができる社会にしたいのです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.208
「障害者に『価値があるか、ないか』ということではなく、『価値がない』と思う人のほうに、『価値を見出す能力がない』だけじゃないかって私は思うんです。」
「なぜ人と人は支えあうのか」P.206
2.鹿野さんの介護を通じて感じたこと
「こんな夜更けにバナナかよ」のモデルとなった鹿野靖明さん。
この原作の著者でもある渡辺一史さんは、鹿野さんの取材としながらヘルパーの役割も担っていました。
その中でいろいろと考えさせられるエピソードがあったようです。
健常者であれば、自分の手足でいくらでも要求を充足できるわけですが、鹿野さんの場合はそういうわけにはいきません。介助者に対して、「そうではない。もっとこうしてほしい」とはっきり口にすることなしには、自分の主体的な人生を生きることなどできません。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.68
鹿野さんのボランティアをすることで、人の役に立っている自分を確認し、自らの「生きる意味」を得ているのではないか、と思いたくなる傾向があります。こうした人間の欲求のことを、「承認欲求」という言葉でいいあらわしたくなりますが、ボランティアや人助けをするひとは、それによって自分の承認欲求や存在意義を埋め合わせている側面が少なからずあるものです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.120
まわりの人から頼られたり、自分が誰かを支え、人の役に立っている存在なんだと実感できることが、生きていく上で大切な要素なのかがわかります。
人は誰かを「支える」ことによって、逆に「支えられている」のです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.125
自立とは、自分で決めること
筋ジストロフィーという難病でありながら、明るくパワフルに生きた鹿野さん。
鹿野さんが自立した生活をするきっかけになったのは、同じように難病を患いながらも自立する姿を見せたアメリカのエド・ロングさんの存在があったからだと言います。
鹿野さんが影響を受けたエド・ロングさんは、自立についてこう語っていました。
「自立とは、誰の助けも必要としないということではない。どこに行きたいか、何をしたいかを自分で決めること。自分が決定権をもち、そのために助けてもらうことだ。だから、人に頼むことを躊躇しないでほしい。健康な人だって、いろんな人と助け合いながら暮らしている。一番だいじなことは、精神的に自立することなんだ」
「なぜ人と人は支えあうのか」P.168
何をしたいのかを自分で決める。そして、そのために人に助けてもらう。
鹿野さんが聞いて勇気をもらった様子がありありと伝わります。
この言葉は、どんな人であれ、常に忘れてはならない大切なことです。
3.そもそも社会とは支えあうもの
世の中や社会というのは、「支えられる人」ばかりだと成り立ちませんが、逆に「支える人」ばかりでも成り立ちません。
(中略)社会や経済というものは、そうした「求める人」と「支えられる人」、「支える人」と「支えられる人」の網の目によってできています。その意味では、「持ちつ持たれつ」が社会の基本原理なのですが、「お金」というものが介在しているために、普段はそのことをすっかり忘れてしまっています。
つまり、自分のお金で買ったものは、自分の力で手に入れたものだと、つい勘違いしてしまいがちなのですが、それを提供してくれる人がいて、それを求める自分がいて、そうした「支える人」と「支えられる人」の双方がいてこそ、初めて社会や経済というものが成立し、自分の日々の生活も営めているのだということを思い出すのは大切なことなのです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.126
「あわれみの福祉感」ではなく
障害者と健常者が「ともに生きる社会」とか、「共生」というものをイメージするとき、障害者や健常者がお互いに助け合って生きる、思いやりにあふれた”やさしい社会”を思い浮かべるのではないでしょうか。
しかし、実際どうかといえば(中略)最終的にはそこに行き着くこともあるにせよ、前段階としては、確実にめんどくさいことが増え、摩擦や衝突、葛藤といったストレス的な要素がむしろ増える”混沌とした社会”をイメージした方がいいのではないかと、私は考えています。
なぜなら、障害者と健常者がともに生きる社会とは、”異文化”どうしのぶつかい合いという側面が必ずあるからです。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.136
「あわれみの福祉観」に縛られている限りにおいて、福祉は”なければないに越したことがないもの”であり、福祉は社会のお荷物で、国の財政を圧迫し、経済成長の足をひっぱる存在だという価値観からもなかなか自由になりません。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.138
介護制度が充実した結果のデメリット
制度が充実するにしたがって、今日では、そのデメリットも指摘されるようになっています。
「制度が良くなると人間同士の結びつきが弱くなる」
「なぜ人と人は支えあうのか」P.238
重度の障害とともに生きる人たちは、私たちの社会に大きな利便性や変革、意識の革命をもたらしてくれました。それは、駅のエレベーターだったり、「自立」という考え方の転機だったり、介護の社会化や地域のケアシステムなど、さまざまなものと結実しています。
そうした障害者の声や思いが、私たちの社会にもたらしてくらたものを「贈与」と呼ぶとすれば、システム化された現在の制度は、逆に、障害者と健常者が「互いに支えあう」契機を失わせ、障害者が社会に贈与を「与え返す」機会を奪っているのではないか。
(中略)
「システム化された福祉は誰も傷つかない代わりに、ドラマもない。ドラマのないところに人間の尊厳も生まれない」
「なぜ人と人は支えあうのか」P.244
すべてが連続していると思ったとき、世界を肯定できる
以前日経新聞のインタビュー記事でチームラボの猪子寿之さんの言葉を取り上げていました。
内容は分断が激しい世界の情勢下でのボーダレスについてでしたが、「実はすべてが連続しているとわかったとき、世界を肯定できるのではないか」とコメントしていました。障害者の問題についても同じことが言えると思っています。
健常者はなかなかイメージしずらいと思いますが、みんな、ふとしたきっかけで障害を持つ立場になったり、いつか老いて支えられたりする立場に変わっていくのです。そう考えれば、社会の問題も自分ごととして捉えられるようになるように思えるのです。
4.「障害者」の表記問題
障害者の表記問題については、「障害」「障がい」「障碍」など様々な意見や考えが交わされています。
大切なのは、表面の言葉尻ではなく、問題の本質をどう論じるかに他なりません。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.16
「障害の社会モデル」
障害の「重い・軽い」は、その人が暮らしている社会や環境しだいで、大きく変わりうるものであり、場合によっては、障害が「障害」でなくなってしまう可能性もあるのです。
つまり、障害者に、「障害」をもたらしているのは、その人が持っている病気やケガなどのせいというよりは、それを考慮することなく、営まれている社会のせいともいえるわけであり、こうした障害のとらえ方を「障害の社会モデル」といいます。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.140
「障害者」の表記のままでよいとする主張もあります。
「障害の社会モデル」とは、そもそも障害とは、障害者個人に付随した特質のせいというよりは、その人が暮らしている社会との相互によってもたらされるものであるという考え方です。
つまり、障害者個人に「障害」があるのではなく、社会の側にこそ「障害」があるのであって、ひらがな表記にすることが障害者への配慮につながるという考え方は、障害を個人の特質とする「障害の医学モデル」の古い考え方にとらわれている証拠であり、賛成できないという主張です。
「なぜ人と人は支えあうのか」P.140
今日のまとめ
この本は、障害や福祉、さらには生き方について非常に考えることが多かったです。
自分が知らないことについて目を向け、視野を広げることは大切ですね。
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