今年の一つのテーマに、自分なりの答えを見つけ出すことがあります。
世の中の事象について、「ひとことで表すと何か」を自分なりに説明できるようになること、自分なりのハラオチ感を持つことを目標しています。
「死生観」も大事な問題であり、松下幸之助さんも次のような言葉を残しています。
死を恐れるのは人間の本能である。だが、死を恐れるよりも、死の準備のないことを恐れた方がいい。
出典:「道を開く」松下幸之助
今回は、前野隆司さんの「『死ぬのが怖い』とはどういうことか」を読んで、「死生観」をまとめてみました。
「『死ぬのが怖い』とはどういうことか」を読む
著者の前野隆司さんは、ロボティックスの研究者を経て、慶応義塾大学大学院で倫理、教育学を教えている教授です。
特に幸福心理学、ウエルビーイングについて第一人者として知られています。
ウェルビーイングの研究については共感するところが多くあり、人の生き死にを語る死生観についても参考になると思います。
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死後の世界は存在するのか
前野さんは、死後の世界が存在しがたいことをいくつかの点で説明しています。
・死後の世界の存在を科学的に証明できない。
・死後の世界の必然性を進化論から説明できない。
・死後の世界の認知が生理学や認知科学と矛盾する。
その上で、次のように結論付けています。
僕のこれまでの多くの経験から帰納して、つまり、統計的に考えて、人間は単なる生物に過ぎず、ただ環境に適応するように進化してきたに過ぎず、神や宗教は人間が作りだした幻想に過ぎず、死後の世界も人間が作り出した幻想に過ぎない、と考えるのが、他のどの考え方よりも妥当にみえるからだ。
『死ぬのが怖い』とはどういうことかp.66
宗教で多く語られた死後の世界について、科学や統計に立脚して考えた時にあるとは思えないという立場を明確に取っています。
「死ぬのが怖い」とは、死後がわからないことが不安であることが要因であると思いますが、そもそも死後の世界がないと考えると怖さもなくなるように、私は感じました。
意見が違っても「合意」するアコモデーション
前野さんは、宗教観が違う人々に対して、自分の考え方に固執しずぎず、相手が違うことを理解すべきだといいます。
その中で、「アコモデーション」を説明していますが、この意味は”意見が違うことをわかり合った上で、お互いを認め合うという意味での合意”としています。
ああ、自分とは違って、真摯に、このような考え方に立脚して、生きているんだなあと、と、明確に理解すべきなのだ。
そして、お互いに尊敬し合って、わかりあうべきなのだ。
『死ぬのが怖い』とはどういうことか p.65
宗教で語られる死後の世界や、輪廻転生などの死生観を否定すべきでないというスタンスでもあります。
死後の世界は幻想。だからこそ、今を生きる。
前野さんは「死を超越する方法」にも、山登りのルートのようにいくつかあることを示している。
- 心は幻想だと理解する道(脳科学の道)
- すぐ死ぬこととあとで死ぬことの違いを考える道(時間的俯瞰思考の道)
- 自分の小ささを客観視する道(客観的スケール思考の道)
- 主観時間は幻想だと理解する道(主観的スケー思考の道)
- 自己とは定義の結果だと理解する道(自他非分離の道)
- 幸福学研究からのアプローチ(幸福学の道)
- リラクゼーションと東洋思想からのアプローチ(思想の道)
前野さんは基本的にルート1で説明できるとしているが、各人でしっくりくる登山路をルート2~7から見つけて下さいと言っています。
そして、まとめとしてこのように締めています。
所詮、死後の世界などは幻想だ。死も幻想だ。過去と未来も幻想であり、人間には現在しかない。そして、現在の意識のクオリアも、幻想だ。最初から、僕たちは生きてなどいない。人間とは、徹底的に、二重、三十重に、幻想などだ。
『死ぬのが怖い』とはどういうことか p.247
クオリアとは、感覚的な意識や経験のことである。人間として生まれた時から身に着けているクオリア。それを失いたくないことが、死にたくないということと同義だとして考えています。
しかし、そもそもそのクオリア自体が、主観的にはあると認識しているが、客観的にみると幻想と言っているのです。
欲を捨てるのではなく、死を迎えるのものでもない。すべては本質的に幻想だと心と体で理解した境地の先には、生き生きとした生がある。もはや、欲はない。死もない。何も恐れるものはない。自由で、鮮烈で、生き生きとして何物にも代え難い、奇跡の生が、あなたを待っているのだ。
『死ぬのが怖い』とはどういうことか p.247
死を恐れたりすることは、人間が生み出した想像力によるものだと言っています。死後の世界、死も幻想であると。
そのように認識すれば、必要以上に恐れることもなく、生きることにこそ意識をもっていけるのだと思います。
参考:死を受容する
次にご紹介するのは、前野さんの著書からではないですが、死生観を学んだ際に参照したものです。
冒頭に紹介した松下政経塾出身の医師の方が死生観について語っていて、非常に参考になりました。
私も例に漏れず、「死」がいつの間にか「普通」のこととして認識されるようになった。もちろん、「死」を軽視するという意味ではない。そうではなくて、人間は「生」を受け、そして「死」を迎えるという当たり前の繰り返しが、当たり前のこととして自然に受け止められるようになった、ということである。それは人間が、食べ物を食べ、睡眠を取り、勉強や仕事や遊びをする毎日を繰り返し、子どもから大人になり、やがて老いるという営みの中で際だって特別なことではなく、その始まりと終わりを示す当たり前の出来事であるように私には思えるのだ。そしてその際に顕わとなる、悲しみ、怒り、驚き、喜び、といった感情も、それが起きることが「普通」の姿として、ある意味では客観的に受け止められるようになった。
https://www.mskj.or.jp/thesis/9350.html
現代においては、医療が発達しており、平和な世の中が続いているため、偶然に死ぬことが減少している。死が日常でなく、特別なものになっている。
しかし、「死」自体も生きる上で、当たり前の事象であり、動物である人間にとって普通の姿であることを改めて感じました。
今日のまとめ
死生観について考えなくてはと思っていましたが、なかなか整理できるものではありませんでした。
前野隆司さんの考えをヒントに、まずは少し考え方を見つけられたような気がします。
少しずつ理解できるようにしたいです。