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贈与が資本主義のスキマを埋める。「世界は贈与でできている」で考えた3つのこと

2023年7月20日


モノの交換でない「贈与」という考え方は、ポスト資本主義社会を考える上で非常に重要な視点です。

資本主義は、競争や利益追求が中心となり、自己中心的な行動が増える傾向があります。しかし、贈与の視点を持つことで、社会のつながりや共感を大切にすることができます。

贈与とは、相手に対して何かを与えることであり、その行為には無償の思いやりや関心が込められています

今回は、近内悠太さんの『世界は贈与でできている』を読んで、印象に残った3つのポイントをお伝えします。

1.「交換」と「贈与」

資本主義は、商品やサービスの交換によって成り立つ経済システムと言えます。個人や企業は、所有している財やサービスを交換によって他者と取引し、その結果として利益を追求します。

一方、この本で語られる贈与は「必要としているにもかかわらず、お金で買うことのできないもの および その移動」のことです。

交換では手に入れられないものであるし、お互いの交換によって成り立つものではないものと言えます。

例えば、プレゼントとして手渡された瞬間に、特別な意味を持ち、個人的なモノの価値が変わっていきます

しかも、贈り物は単に受け取るだけでなく、贈る側、つまり差出人になることの方が確かに大きいという点にあります。

そして、贈与は必ずプレヒストリー(歴史や背景)を持つことも大きな特徴といえるでしょう。

プレヒストリーがあるからこそ、自分自身も他者に対して贈与という形で貢献していこうというと思うのです。

誰かを通して、何かを通して、想いはつながっていくでしょう

「to U」BankBand

無償の愛という誤解

子がすこやかに成長することを通して、親は自分の贈与が意味あるものだったと一応は納得できます。

ですが、人間は社会的な存在でもあります。身体的な成長というだけではなく、精神的な成長にいたった否かをうまく渡せたかを否かの指標となります。

それゆえ、子が自立するまで、親は反対給付の義務のただ中にいることになります。では、親は何をもって自分の愛の正当性を確認できるのでしょうか。

子がふたたび他者を愛することのできる主体になったことによってです。

p31

子供が子育てを経験したからこそ、自分自身が親から受けていた愛情(=贈与)を感じるとよく言います。

そして、それを我が子にも返していこうとする気持ちを理解できるのではないでしょうか。

ギブ&テイクの限界点

贈与がなくなった世界(交換が支配的な社会)には、信頼関係が存在しない。

裏を返せば、信頼は贈与の中からしか生じないということです。

だとすると、交換的な人間関係しか構築してこなかった人間は、そのあとどうなるのか?

周囲に贈与的な人がおらず、また自分自身が贈与主体でない場合、僕らは簡単に孤立してしまいます。

僕らが仕事を失うことを恐れるのは、経済的な理由だけではありません。

仕事を失うことがそのまま他者とのつながりの喪失を意味するがゆえに恐れるのです。

仕事を失い、かつ頼れる家族や友人知人などがいない場合、僕らは簡単に孤立する。

「世界は贈与でできている」P51

仕事の喪失が単に経済的な影響だけでなく、社会的なつながりの喪失を意味することを強調しています。

少し後にはこんな一節もあります。

”交換の論理を採用している社会、つまり贈与を失った社会では、誰かに向かって「助けて」と乞うことが原理的にできなくなる。”

誰にも頼ることが出来ない世界とは、誰からも頼りにされない世界となる。僕らはこの数十年、そんな状態を「自由」と呼んできました。

頼りにされるというのは確かにときに面倒くさい事態となります。僕らはそれを「しがらみ」や「依存」と呼んで、できる限り排除しようとしてきました。

その代わり、ありとあらゆるものを自前で買わなければならなくなりました。

「世界は贈与でできている」P56

資本主義社会が広がりすぎて、すべてものを商品として捉えるような傾向があります。福祉や介護などもお金の負担と比べるような認識すら広がっています。

2.「逸脱的思考」と「求心的思考」

求心的思考

求心的思考とは、常識の枠組みを疑うのでなく、それを地として発生するアノマリーを説明しようとする思考のことです。

「世界は贈与でできている」p159

アノマリーとは、「変則性」という意味であり、通常のルールから逸脱したものと言えると思います。

資本主義的な「交換」がベースとして存在するからこそ、この「贈与」についても重要性を認識できているのです。

逸脱的思考

「逸脱的思考」とは、SFのように今生きている世界像からかけ離れた世界を生きることのようなものです。

他の箇所では、こんなことも言われています。

”現代に生きる僕らは、何かが「無い」ことには気づくことができますが、何かが「ある」ことには気づけません”

そこにあって当たり前すぎて、そのことを想像することができないのです。

しかし、逸脱的思考のように、世界と出会い直すための想像力をえることで、私たちには多くのものが与えられていた(=贈与)に気づけるのです。

本書では、映画「テルマエ・ロマエ」で現代にタイムスリップした主人公のルシアス(阿部寛)が現代のモノに驚いていることが象徴的な事例として挙げられています。

3.贈与を気づくための想像力

市場経済での等価交換に対して、贈与はアノマリー、つまり「間違って受け取っていたもの=誤配」として認識されます。

誤配の手紙は僕ら自身で読み解かなければならないのですが、それを読み解くためにも「想像力」が必要と言えます。

今、僕らは近代民主主義、近代国家、市場経済システムという言語ゲームを生きています。そして、それを当然のものとして受け取っています。ですが、これらの制度も先人たちの努力の結果として、偶然、現代の僕らのもとに届いたものです。ある歴史的な出来事には、さまざまな偶然的なファクターが関与しています。歴史を学ぶというのは、そこに何ら必然性がなかったことを悟るプロセスでもあります。

この世界の壊れやすさ。
この文明の偶然性。
これに気づくために僕らは歴史を学ぶのです。

「世界は贈与でできている」p240

差出人から始まる”贈与”ではなく、受取人の想像力から始まる贈与を基礎においています。

この本の肝でもありますか、「贈与とは受取人から始まる」とは非常に興味深い考え方です。

”手に入れた知識や知見そのものが贈与であることに気づき、その知見から世界を眺めたとき、いかに世界が贈与に満ちているかを悟った人を教養ある人と呼ぶのです”

贈与によって、僕らはこの世界の「すきま」を埋めていくのです。

この地道な作業を通じて、僕らは健全な資本主義、手触りの温かい資本主義を生きることができるのです。

「世界は贈与でできている」p244

今日のまとめ

「世界は贈与でできている」という視点を持つことで、資本主義社会においても個人や社会の幸福と共感を追求することができます。相手に思いやりを持ち、贈与の行為を通じて社会のつながりを強化し、持続可能な社会を築くことが大事です。

個人的には、二宮尊徳の教え「推譲」に近い感覚で、比較的すんなりと入ってきましたが、幸福とは何かを問い直す機会となりました。

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