二宮尊徳の広めた「報徳仕法」が、地域再生を学ぶ観点から再び注目されています。
今回は、二宮尊徳の名言と共にその教えを一緒に学んでいきたいと思います。
目次
二宮尊徳とは
二宮尊徳(1787~1856)は江戸時代後期の農村指導者です。
相模国足柄上郡栢山村(現在の神奈川県小田原市栢山)に生まれ、「報徳仕法」といわれる一連の事業によって、荒廃した600あまりの農村の復興を指導しました。
現在の言うところの「事業再生のプロフェッショナル」とも言えます。
稲盛和夫さんの「生き方」のプロローグにも、日々の仕事に精魂を込めて、一生懸命に生きた者の例として、二宮尊徳翁が紹介されています。
たとえば、二宮尊徳は生まれも育ちも貧しく、学問もない一介の農民でありながら、鋤一本、鍬一本を手に、朝は暗いうちから夜は天に星をいだくまで田畑に出て、ひたすら誠実、懸命に農作業に努め、働き続けました。そして、ただそれだけのことによって、疲弊した農村を、次々と豊かな村に変えていくという偉業を成し遂げました。
引用:「生き方」(稲盛和夫)
「二宮金次郎」の名が、広く知られた理由
弟子(富田高慶)によって、尊徳の伝記「報徳記」が書かれ、これが明治16(1883)年に宮内省から発行され、幸田露伴が少年向けに「二宮尊徳翁」を出して、多く読まれ、内村鑑三が「代表的日本人」として尊徳を高く評価することで、二宮尊徳の名前、そして至誠・勤勉の思想は、広く知られるようになりました。
出典:二宮尊徳の実像と現在までの影響
宮内庁の「報徳記」はデジタルアーカイブで読むことが出来ます。
二宮尊徳がと説いた「報徳の教え」は弟子たちがまとめて、それが政府をお墨付きを与えることで、一般にも広まったと言えるでしょう。
その生き方の見本となる少年時代の「金次郎像」が全国の小学校に建てられたのも同じ流れでしょう。
報徳仕法とは
報徳の由来
二宮尊徳の思想や方法論は「報徳」と呼ばれています。
これは、尊徳の思想に対して、小田原藩主・大久保忠真から「汝のやり方は、論語にある以徳報徳(徳をもって徳に報いる)であるなあ」との言葉をいただいたことによります。
論語の「以徳報徳」
元となった「論語」を紹介します。
※読み下し文と現代語訳の出典は、ちくま文庫「論語」(斎藤孝)
ある人曰く、「徳を以て怨みに報ゆるは、如何」
子曰く、「何を以てか徳に報いん。直きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ」
現代語訳:
ある人が先生(孔子)におたずねした。「怨みのある相手に対して怨みで報復するのではなく、恩徳で報いるというのはいかがでしょうか」
先生(孔子)はいわれた。
「では恩徳のお返しには、何をもってするのですか。(怨みと恩徳とお返しが同じというのもおかしなことです)
率直な気持ちで怨みにはそれなりに対し、恩徳には恩徳をもってお返しすることです。」
報徳の教え「四つの柱」
報徳には中心となる「至誠・勤労・分度・推譲」という4つの教えがあります。
1.「至誠」
すべてのものに良い結果を与える理念として、「まごころをもって事に当たる」ことを尊徳は教えています。
「わが道は至誠と実行のみ」という尊徳の言葉の通り、まごごろを尽くして向き合うことを考え方のベースとしています。
2.「勤労」
大きな目標に向かって行動を起こすにしても、小さなことから怠らず、勤めなければならないということ。
小さな努力が実を結ぶことを実体験の中から見出して、「今まく木の実、後の大木ぞ」という尊徳の有名な言葉が残されています。
3.「分度」
「分度」とは、適量・適度のことを表します。自分の置かれた状況や立場をわきまえ、それにふさわしい生活をおくることです。
分度をしっかり定めないままだから、困窮してしまうし、暮らし向きも楽にならない。家計でも仕事でも、現状の自分にとってどう生き、どう行うべきかを、知るということが大切だという考えです。
4.「推譲」
「推譲」とは、肉親・知己・郷土・国のため、あらゆる方面において、譲る心を持つべきであるという考え。
分度をわきまえ、すこしでも他者に譲れば、周囲も自分も豊かになるものだという教えです。
「湯船の湯は向こうへ押せば、こちらへ帰る」という言葉もあります。
報徳訓
二宮尊徳が体系化した報徳の教えを、百八文字にまとめたものが「報徳訓」です。
大日本報徳社では今でも講堂に掲げられており、多くの方に読み継がれています。
父母の富貴は祖先の勤功にあり。
我身の富貴は父母の積善にあり。
子孫の富貴は自己の勤労にあり。
年々歳々報徳を忘るべからず。
私自身は、この4つの文章を抜粋してたまに読んでいます。
自分がこれまで生きてこれたことへの感謝の念を感ずると共に、次の世代のためにも一層の努力をしなくてはならない、と身が引き締まります。
名言選
積小為大(せきしょういだい)
「大事を成さんと欲する者は、まず小事を務むべし。大事を成さんと欲して小事を怠り、その成り難きを憂いて、成り易きを務めざる者は、小人の常なり。それ小を積めば大となる」
NHKで二宮尊徳の特集があった際に、タレントの西川きよしさんが出演されていて「小さなことからコツコツと」が共通点だと言ったのを思い出します。
心田開発
何事を成し遂げるにも、まず本人のやる気を起こさせることが始まりであり、それによって一人ひとりが自立できる基盤を育成することができる。
二宮尊徳は、農村の荒れ地を耕すだけでなく、人々の心も開拓していったといっても過言でないでしょう。
一円融合
すべてのものは相互に働き合い、一体となって良い結果を生み出す。
道徳なき経済は罪悪であり 経済なき道徳は寝言である
経営理念がない会社が行う経済活動はときに罪悪を作りだし、利益も出ていない経営者が話す経営理念は寝言である、と言うとピンときます。
同じような言葉は意外と多くあります。
「論語とそろばん」「経営理念と戦略」「フィロソフィと数字」
どれも考え方と実践を表した言葉だと言えます。いざ実行するためには両方が必要となります。
きゅうりを植えてきゅうりと別の物が実ると思うな。自分が植えたものが実るのである
報徳 4大門人
冨田高慶
中村藩士(今の福島県相馬市)の子として生れた高慶は、江戸修学中に荒廃した領内を復興するため尊徳の下に入門しました。
やがて門人の筆頭となり、終生尊徳に仕えて、尊徳に代って中村藩の事業(御仕法)の指導しました。
また、尊徳の教えを世に広めるため「報徳記」や『報徳論』を著したことで、後世にも報徳仕法が伝わりました。
斎藤高行
富田高慶の甥にあたる。高田の後を次いで、中村藩御仕法の後半を指導しました。
福住正兄(ふくずみ まさえ)
5年にわたり尊徳の身辺の世話をしながら、実地で「報徳仕法」を学びました。
この時尊徳から受けた教えを書きとめ、後に「二宮翁夜話」を記しました。
その後、家運が傾いていた箱根湯本の旅館・福住の婿養子となり、ここで師尊徳の教えを実践すべく旅館の再建に携わりました。
正兄のこうした努力によって、箱根に訪れる人が増え、全国屈指の観光地となる箱根の礎を築いたと言われています。
岡田良一郎
遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市倉真)の出身。
全国に広がった報徳仕法の中でも、遠州地方は盛んでした。その中心的な役割を担ったのは岡田佐平治と子の良一郎でした。
良一郎は、遠江報徳社を大日本報徳社に改称し、全国の報徳社の中心組織としました。
また、日本初の信金の始まりとなった勧業資金積立組合(現在の島田掛川信用金庫)の設立や、 静岡県立掛川中学校(現在の静岡県立掛川西高等学校)の初代校長に就任するなど地域社会にも大いに影響を与えました。
関連事項
大日本報徳社
静岡県掛川市に、現在も報徳仕法を広める拠点として社団法人大日本報徳社の本社が置かれています。
ここでは、月一で”常会”と呼ばれる勉強会が開かれており、一般の方の参加も可能です。
参考リンク:大日本報徳社
今日のまとめ
二宮尊徳について、真っすぐに向き合って、すこし固めな内容でしたが、まとめてみました。
私は掛川の出身なので、子供の頃から報徳仕法に少なからず影響をうけていたと感じています。
また、二宮尊徳から流れを受けた松下幸之助さん、稲盛和夫さんなど考え方や生き方は、自分の考え方の基礎となっている部分も多いのです。
今後も継続して学び、報徳の考え方を活かしていきたいです。
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